「彼氏」と呼べる存在

中学2年のときに初めて「彼氏」と呼べる存在ができた。
今現在、「これまで何人付き合った?」と聞かれても、中学時代の彼氏はカウントしないが、一応初めての彼氏。
デートは一度だけしたっきりだった。

市内で開かれる大きな花火大会にできけた。
どちらから誘ったのかとか、私は浴衣を着ていったとかよく覚えていない。
小さなことだが覚えているエピソードは、雨の翌日で芝生がぬかるんでいたことと、帰り道のこと。

ぬかるんだ芝生に私が座らなくて良いように、ビニール袋を近くの人にもらって私が座るところを作ってくれたことは良く覚えている。
何をするにも脚が動きにくかった記憶があるので、ということは浴衣を着ていったのかもしれない。

広い公園の真ん中には巨大な池があり、この中心から花火が上がる。
それを公園中から見上げる花火大会だ。
私たちが座った場所は木が生い茂っているところで、枝葉と枝葉の間から見上げるようだった。

その他のことはあまり覚えていないが、帰り道のことが印象的だった。
同じ中学校の男の子だったため、家は近所。
近所といっても、徒歩20分くらい家が離れていた。

二人の家の分岐点辺りが中学校だったが、そこらへんで「じゃ、おやすみ!」といきなり解散した。
「あれ?うん。」と腑に落ちないまま私も帰ったが、すぐに家の電話が鳴った。

そのまま帰ったことに対して親から「なぜ送って帰らなかったのか」と問い詰められたそうだ。
それで無事に帰り着いたかどうかの確認電話だった。
緊張していたのだろうか、なんだか初々しい思い出だ。

自立した大人

20代前半の頃、私は自立した大人とは言えないような生活を送っていました。
会社員になって東京で一人暮らしをしていましたが、何かあれば親のすねをかじっていました。
情けない話です。

私は若い頃、独立して大金持ちになりたいと思っていました。
実際に、彼氏がそういう人だったこともあり、影響されながら、そんな風に考えていました。
でも、これは簡単なことではなく、とても難しいことだと、だんだんと気が付いたのです。
よく、人は一人では生きられないと言います。
これは、誰しもが同意できるのではないでしょうか。
自分の周りには、家族や友人、恋人、会社の同僚、上司、部下、隣人、行きつけのお店の従業員などなど、沢山の人が存在しています。
好きな人もいれば、苦手な、嫌いな人もいるでしょう。
でも、バランスを保ちながら、自分の人生があります。
誰かに依存しすぎてしまえば、その人なしでは生きられなくなってしまうので、あまり良いことではありません。
20代前半の私のように、親に依存して人生を送っていたのでは、もしも親がいなくなってしまったら、一人で生活することができません。
つまり、自立できていないのですね。
もしも、今の環境に不満があるのならば、今の自分がどういう人たちに囲まれて、誰に支えてもらっているのか意識し、感謝することで、少しずつ変わっていくかもしれません。
嫌いな人がいて、その人のことばかり考えていると、その人に振り回されてしまうことになります。
自分を支えてくれる人を大切にし、自分も誰かを支えていけるような人生を送りたいものです。